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新年がなかったイラク戦争の犠牲者たちに
これをイラク解放の戦士たちの尊い犠牲と見るか、侵略者の無残な死と見るかでは評価がわかれる。
しかし、建国以後のアメリカにとって、これは南北戦争の内戦をのぞけば米兵の死者はワースト6にはいる犠牲になったのではないか。
くわしいデータは持ち合わせていないが、20世紀はじめのフィリピン侵略戦争が5000人だから、それに次ぐ記録になったのではないか。
それを超える犠牲をだした戦争は、もちろん第二次世界大戦、第一次世界大戦、ベトナム戦争、朝鮮戦争(順番はこれでいいのかな?)。
3000人には、それぞれの顔があって、家族があって、ともだちがあって、恋人があって…。
それらが2003年3月からの戦争によって狂わされたことは、客観的事実である。
さらに負傷者を加えると大変な数になるのだろう。
もちろん、その背後には、その何十倍、何百倍のイラクの人たちの犠牲があるのだ。
彼らには2007年の新年はやってこなかった。
たぶん新年の休暇中である、ブッシュ大統領をはじめアメリカ政府の高官たちはその重みを自覚しているのだろうか。
中間選挙で敗北してもなお、増派計画に固執する彼らを見ていると、その自覚はないみたいだ。
犠牲者たちに思いをはせて、出来ることで戦争終結に向けて力をつくしたいと思う。
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イラク関連に関してはついついコメントする「冥王星」です
さて、犠牲者についてはこれは記事が指摘するとおりのことです。
問題は、これらの民間の犠牲者に対する戦争被害の意識の問題なのです。確かに戦争は非道な政治行為です。できれば回避したいとも思います。しかしそれが困難な政治課題もある以上は戦争という手法を否定しきれないのが自分の立場です。
そして民間犠牲者の存在が発生する問題はそもそも、戦時国際法の問題ということを理解してほしいと思います。
ジュネーブ条約をはじめとする戦争におけるルールというものがあり、そこには民間人を保護し、交戦資格者であっても条件を満たせば捕虜としての保護を受けられるという法規が存在するわけです。そのような国際法が守られないことがそもそも問題なのです。
実は、この戦時国際法に関する知識は日本ではほとんど勉強されることはありませんが、スイスやスウェーデンなどではほとんどの国民が概要を理解しています。これは両国は平和主義、中立主義でありながらも常に国防意識が高かったために発生したことだと言われます。
悲観的な解釈をするのは問題ですが、現在の日本の国防状態は「幕末の騒乱時代」に似ていると思えなくも無いのです。それはより軍事力を高めろ、という意味での啓蒙を呼びかけているのではなく、予防措置を考えておこうと言う意味です。そのために、日本は世界との相互依存関係を深めて、それが一部の安全保障に帰結し、その理想が国連の平和思想とWTOの基本理念に一致したのです。そのような経緯を踏まえてさらに日本が自国のみの安全でも意識を持つべきではないでしょうか?それからさらに極東アジアのバランサーになればもっと理想的なアジア地域になれると思います。
理想論という指摘は否定しませんが、そのための核武装論であれば個人としては回避しようとは思いませんし、平和とは己の犠牲をもってして”も”獲得するべきものであると思います。
自分が崇拝している「スイス」「スウェーデン」などの国家が日本に当てはまるとは言いませんが、せめて、近代国家として「夜警国家」レベルの機能性があってしかるべきだと思います。それが単に武装という道ではなく多様な選択肢であってもいいと思います。
同時に、力をもってもそれみだりに振るわない度量というものが”本当の自由”のための条件だと思います。
それはスイスのようにたくさんの銃があっても銃犯罪がほとんど起きない自制心と同じく、”自由というのはより個人の理性に依存するものである”という覚悟の上での理解だと思います
年始挨拶としては相変わらず、政治的ですが、自由という権利につきまとう責任を感じるような人間こそ本当の意味での近代人だと認識しています