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土陽新聞と高知新聞

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16日に鷄肋庵主人と連絡がついて、旅行のあらましを話して「こんばん高知でどう?」と誘ったが、彼はいま手が離せない仕事に没頭していて「それどころじゃない」と断られた。
で、わたしが「土佐史談」の特集号「昭和史」に書こうと思っている論文のあらましを話して、高知新聞社から戦前の新聞紙面のコピーについて1枚100円と言われたという話をすると、「それだったら自由民権記念館に行けばいい。あそこなら1枚10円でコピーできるし、めくれるので検索も早い」と教えてくれた。
記念館に行って彼の名前を出して趣旨を告げるとすんなり2階の事務室へ通してくれた。
さすが自由民権研究家と思った。
そこで土陽新聞と高知新聞の戦前の紙面をめくった。
もちろん全部やるととてつもないことになるので、だいたいのポイントとなる時期に絞り込んでだしてもらってめくった。
それでも1時半から5時過ぎまでかかった。
コピーした資料は75枚。
高知新聞なら7500円とられたところを750円ですんだ。
さてこの土陽新聞と高知新聞。
昭和16年までは高知県は2紙並立だった。
ちょっと歴史をメモっておく。
「新聞のお葬式」で有名な「高知新聞」はいまの高知新聞とは違う。
いまの高知新聞のルーツは土陽新聞である。
土陽新聞は明治16年に数々の弾圧をかいくぐって、立志社の系譜をひく絵入り新聞として出発。
坂崎紫瀾の坂本龍馬伝「汗血千里駒」がヒット、さまざまな苦難はありながらも高知県一の新聞に発展する。
それには日清戦争(明治27年)報道も寄与していた。
自由民権運動は国会開設、選挙大干渉などをへて変質・堕落。
明治31年の憲政党結成と隈板内閣誕生と瓦解を経て、33年の立憲政友会結成で完全に命脈を絶たれた。
高知県の立憲政友会には、それまで激しく対立していた自由党と国民党が合同、明治維新以来起きた社会経済基盤の変化による利害対立をはらんでいた。
それは一人勝ちで立憲政友会の新聞となっていた、土陽新聞にも反映した。
都市企業家を中心とする「中央派」と地方地主、資産家を代表する「郡部派」である。
両派の対立は、日露戦争中の明治37年9月に決定的となる。
株主総会を押さえた郡部派は中央派の社員の除名を強行。
土陽新聞を追われた社員は「高知新聞」を創刊した。
ここに高知県に二大紙並立の時代が始まった。
後の詳しい歴史は省くが、わたし流の解釈をいえば、両紙の競争は老舗の土陽新聞が経営でも紙面編集でも保守的(政党紙)だったのに対して、新興の高知新聞は経営でも編集でも革新的(商業紙)で次第に力関係は逆転していく。
唯物史観流に言えば都市ブルジョアジーを代表する新聞が地主階級を代表するそれを圧倒していったともとれる。
こうして土陽新聞は昭和4年、高知新聞の軍門に下り、共同経営を余儀なくされた。
一時はそれを解消したものの劣勢は覆いがたく、昭和16年の国の「一県一紙」方針によって高知新聞に吸収合併される。
こうした歴史を知った上で、戦争についての両紙の報道を読み解いていかなければならないと思う。
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