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特攻の責任

関行男大尉について書く。
フィリピンは、いまは雨季。基地を飛び立っても、敵艦隊を発見することは至難のわざだった。
彼の指揮する特攻機は、21日から25日の突入まで死を求めて飛び続けた。
どんな気持ちでコックピットにいたのだろうか。
彼の出撃直前の写真がのこっている。
飛行服姿の彼は、腰に手をつき、カメラからやや斜めに視線を投げかけている。
きびしいまなざし、きりりと結んだ口もとには怒りすら感じさせる。
そもそも日本軍はマリアナ海戦とサイパン陥落によって、連合艦隊は事実上壊滅し、本土はB29の爆撃範囲にはいった。
絶対国防圏が崩壊したのである。誰が考えてもあとは絶望的な戦いしかなかった。
事実、それから日本軍の戦死者(多くは餓死・病死だが)と民間人の死者は激増する。
それからの戦争は、決断のつかないまま惰性でたたかってきたにすぎない。
指導者たちの怠慢と無責任ぶりがきわだっている。
戦術といえば、若者たちの命を湯水のようにつかって、連合軍を恐怖させることしか智恵はうかばない。いや、若者に死地を与えることが戦争だと錯誤された。
人間爆弾「桜花」の初出撃命令にそれが端的にあらわれている。
この出撃は、敵艦隊に打撃をあたえることではなく、死なせることが目的だったという。
指揮官の野中大尉は、あまりにも理不尽な出撃命令に「これは湊川だよ」といって、大空に舞い上がっていったという。関大尉と同じような気持ちだったのだろうか。
われわれが、特攻で散っていった若者たちの気持ちに少しでも共鳴させるとしたら、彼らの死を美化するのではなく、彼らを特攻に追いやった戦争指導者たちの怠慢を糾弾することではあるまいか。スリカエを許してはならない。
責任は軍令部のエリートにあり
読売新聞の「検証・戦争責任」の報告(06/08/13)では、特攻の責任者として軍令部の中沢佑(作戦部長・海軍少将)、黒島亀人(軍備部長・中将)、大西滝二郎(第一航空司令艦隊司令長官)らの名前が上がっています。
大西は「特攻の父」と言われていますが、大西が敷島隊を組織して初特攻させる一年以上前(43年8月)に、軍令部では特攻を戦略化しています。中沢、黒島の責任は重いと思います。 大西は終戦の8月に自決しましたが、中沢も黒島は「後から続く」こともなく、生き延びました。
特攻隊員に選抜された者の逡巡、苦悩に目をやり、それを現在の若者が考えることは大切なことです。しかし、ただ、「国を思う純真な気持」に感動するだけではなく、すくなからぬ者が、出撃前に失禁したり、腰をぬかしたり、呆然自失となっていたこと、それを整備兵が無理矢理機内に押し込んで飛行させたということ、こうした生の現実にも眼をこらして欲しいと思います。
特攻は、それを命令(強制)する者がいてはじめてなりたったのだということを、忘れないようにしましょう。