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土佐高知の雑記帳

四国西南部から徒然なるままに、祖国の右傾化、田舎切りすてに異議申し立てほえる。靖国神社の戦争犠牲者冒涜に怒りの発信!軍需産業=吸血鬼を暴き出すお気楽バンパイア・ハンター(^○^)

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多喜二の時代といま

 1933年(昭和8年)のきょう、作家で日本共産党員だった小林多喜二は東京築地署で虐殺された。29歳だった。
 時代は、日本社会全体にくらーい影が覆っていた。都会では不況・閉塞感、農村では飢饉、娘の身売り。それに比例するように排外熱は高まっていた。
 「まんしゅう、まんしゅうだよ。満洲が手にはいりゃあ、こんな不況は一発で吹き飛んじまうんだ」(映画「戦争と人間」で俊介、耕平が屋台で食事しているときの酔客の言葉)
 日本はその満洲を1931(昭和6)年の謀略によって手に入れ、前年3月1日には、満州国建国宣言をおこない「ニセ満州」をでっち上げていた。
 時代は急ピッチで戦争の坂道を転げ落ちていった。



 「海外侵略と国内の専制支配はメダルのうらおもてである」との真理は、戦前の日本こそピッタリだった。
 日本帝国主義は、過酷な国内収奪・搾取と海外進出を特徴としていた(その痕跡は、こんにちにも引きつがれている)。
 「満洲・王道楽土」は、当時の支配層が、農民や貧しい労働者の不満をそらせ、植民地支配を強固にするための一石二鳥のスローガンだった。その結果、多くの農民、労働者が満洲にわたり、ソ連参戦時には関東軍に見放され、数々の辛酸を味わったこと、それがまた今日の「残留孤児」問題の発端になっていること、貧しかったわが高知県・幡多地方から、多くの農民たちが「開拓団」として送り込まれ辛酸を味合わされたことなど、語りたいことは多いがいまはおく。

 多喜二のことである。
 彼は、この時代の支配者の欺瞞と搾取の実体を暴き、それと力は弱いがたたかう労働者、農民と党の姿をえがいた。しかも、彼は日本共産党の地下活動のもとでそれをやったのだ。
 たたかうことと書くことは、わかちがたい彼の生き方だった。
 それゆえに国体の変革を目的とする団体、個人をミンチにしようとする治安維持法と特高警察の憎悪の的となった。
 彼は路上レポ中に逮捕された。そしてその日のうちにありとあらゆる拷問をうけて虐殺された。

この虐殺は、本格的な侵略戦争への傾斜を深めていた天皇制政府の残虐かつ冷酷な決意の現われだった。獄中にあった党の幹部のなかからは「死の恐怖」から「転向」声明を出したものも現れた。特高警察のスパイ挑発活動ともあいまって、党は追いつめられていく。
 治安維持法と特高警察は、次第に弾圧の範囲を学会、言論界、宗教界へとひろげていった。先に再審裁判が棄却となった「横浜事件」もそれである。

「帝国主義戦争と天皇制権力の暴圧によって、国民は苦難を強いられた。党の活動には重大な困難があり、つまずきも起こったが、多くの日本共産党員は、迫害や投獄に屈することなく、さまざまな裏切りともたたかい、党の旗を守って活動した。このたたかいで少なからぬ党員が弾圧のため生命を奪われた。
 他のすべての政党が侵略と戦争、反動の流れに合流するなかで、日本共産党が平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けたことは、日本の平和と民主主義の事業にとって不滅の意義をもった」(日本共産党綱領

 いま時代は、ある意味で1930年代に似かよっているといわれる。
 閉そく感はあり、貧富の格差は広がっている。
 言論抑圧、監視社会の危険はせまっている。
 
 だが、多喜二の時代とは異なる条件をもっている。
 それを最大限にいかして、多喜二の生き方をいまに引きつぎがんばりたいものだ。

 多喜二虐殺の4日あとの24日、国際連盟は日本軍の満洲謀略を明らかにしたリットン報告を賛成42、反対1、棄権1、欠席12の大差で採択し、満州からの撤退を日本政府に勧告した。松岡洋右全権は、ただちに連盟脱退を表明、席をけった。
 翌日の25日付の「東京朝日新聞」の見出しは「連盟よさらば!遂に協力の方途尽く」「総会、勧告書を採択し 我が代表堂々退場す」「けふ閣議で正式に 脱退方針を決定」と勇ましい文字を松岡首席代表らの顔写真とともに並べた。1ヵ月後に帰国した松岡を待っていたのは、凱旋将軍ばりの国民の大歓迎の波だった。
 国内外で日本は破局への道を転げ落ちていった…この轍をくりかえしてはならないと思う。

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横浜事件再審、名誉回復されず

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1933年2月20日

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*Comment

共産党は大戦を阻止出来ませんでした 

 確かに非転向の党員も何人かはいたでしょうが、この1928年と1931年の当局側の一斉検挙で党組織は壊滅し、組織的な抵抗運動はできなくなりました。
 それだけ戦前の共産党には当局側のスパイが侵入していたのです。戦後こそ組織は大きくなりましたが、「水ぶくれ」しただけではないでしょうか。
 歴史の事実は抵抗運動で侵略戦争を阻止できなかったのです。残念ながら。

歴史の事実はそのとおりです。 

肝心なことは、そこからどう教訓を引き出し、
次の戦争を阻止するために知恵と力を使うかです。

評論と傍観からはそれは生まれてきません。

これは一共産党だけではなく、
国民に等しく問われている課題であると思います。

ちなみに共産党のたたかいについていえば、
敗北したけれど、いまにつながるものは残したと思います。

100回もプロポーズして
ふられた経験があったからこそ、
101回目のハッピーマリーがあるのです。

 

多喜二は、もともと北海道拓殖銀行の
行員であったが、実のところ
解雇されていたことが、
拓銀が破綻した後、資料が外に出てきて
わかった。

これだけの事実が、戦後50年もの間
わからなかったのだ。

戦争に協力した企業組織も
その実態は、破綻するまで
わからないということでは
あまりにも、情けないのではないか。

侵略戦争を阻止できなかったという
無念の気持ちは

戦争責任をどこまでも求めていく
ということでしか、晴らすことのできない
ものだと思う。

多喜二は進んで地下活動に向かった
のではなく、そのように追い込まれて
いったのだ。

そんなときに、熱海で静養していた
大幹部もいたと聞いている。

それが我慢できなくて
同じ北海道出身の野呂は
街路に出てきて命を失った
らしい。

絶望的な闘いを闘うたたかいだったのだ。
  • posted by maspy 
  • URL 
  • 2006.02/21 06:14分 
  • [Edit]

2月20日を迎えて 

小林多喜二・宮沢賢治がめざしたものは同じだったというのが、昔から二人を尊敬してきた私の持論です。多喜二は確かにプロレタリア文学のエースでしたが、その肩書きが多喜二の文学を一面的に狭めて、人々に印象付けるマイナス面もあると思っています。私は政治・文学を勉強する青年には、思想・宗教がちがっても、多喜二の生き方を学び、「1928年3月15日」「蟹工船」は是非読んで
欲しいなと思っています。また、志賀直哉と多喜二の交流のエピソードも知って頂きたいです。
  • posted by 御影 暢雄 
  • URL 
  • 2006.02/23 14:09分 
  • [Edit]

御影さんコメントありがとうございます。 

詳しくは知りませんが、
多喜二と宮沢賢治。
似ているところがあるかもしれませんね。

わたしはタキさんにたいする一途な思いをもつ
多喜二が好きです。

あんな繊細で思いやりがあって、やさしい青年であったがゆえに、あの時代と対峙したんだろうと思います。

彼と同じころに高知県でも青年たちによる
文学運動、反戦運動が花ひらいていました。
みーんな、心優しき人たちでした。
http://www1.quolia.com/jcphata/sub9_menu5.html

これからもヨロシク!

コメント御礼 

早速コメントを頂き、有難うございます。昨年、「早春の賦」奈良公演に先立つ講演会に、釘崎康治様が話され、多喜二の1931年11月の志賀直哉訪問の話をされ、いたく感動しました。それ以来このエピソードを小説にしたいと取り組んでいるところです。全国のオールド多喜二ファンと、これからの青年学生に捧げるつもりで、執筆中です。多喜二がエセ-ニンのことをどう思っていたかを、今調べたりしています。これからも時々、お邪魔します。
  • posted by 御影 暢雄 
  • URL 
  • 2006.02/23 16:47分 
  • [Edit]

大いに共感 

管理人さんの2月23日の御影さんへの返信に大いに共感しました。




 あと日本共産党の戦前・戦中に主張してきたことは(基本的人権などは)今では当たり前のことになってきた、というのも大事なことだと思います。

  • posted by ぶっさん 
  • URL 
  • 2006.02/27 23:07分 
  • [Edit]

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男性/スライム系(LV61・HP715・MP1952)/高知県に生息/酒席は好きだが、晩酌はしない/どちらかといえば「凝り性」/美徳は「きまぐれ」/ウルトラマラソンに向かって日々鍛錬中!!/嫌いなことは陰口と意見を無視する態度
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