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朝鮮通信使と日本の人びと
係を確立しはじめる。3度の回答兼刷還使から朝鮮通信使に変わるとき、朝鮮政府部内ではある検討がされる。
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それは、日本が再び朝鮮を侵略しないようにするためにはどうすればいいかという問題だった。
当時、朝鮮の人たちは日本のことを「倭国」といい蔑む傾向があった。
日本が武力侵略をしてきた根本には、日本がまだ文化的に発達していないからとの認識から、交流を通じて文化レベルを引き上げることが朝鮮通信使の任務として与えられることになった。
こうして朝鮮通信使には政治的な役割ほもっている人のほかに、書や絵画、音曲、舞踊に長けた人たちも加えられた。
朝鮮の首都・漢城から江戸まで、海陸の道中で日本の人たちとの交流が行なわれた。
日本の庶民にとっても、参勤交代は「下に、下に」と格式ばってつまらないのに対し、朝鮮通信使の一行は文化的な装いで格式ばらないことが評判となった。
こうして江戸時代の「韓流ブーム」が始まった。
しかし、こうした交流は一夕で出来たものではなかった。
番組で紹介されていたのが、1711年の朝鮮通信使・シンユハンと日本側接待役・雨森芳洲との関係である。
シンユハンは朝鮮出兵でもっとも被害の大きかった地域の一つの出身、彼の身内にも被害者はいた。
だから、日本行きはいやでいやでしょうがなかった。
だが、国王の命令には従わねばならない。
いやいや日本に渡った。
日本側接待役は雨森芳洲。対馬藩に仕官し、釜山で朝鮮語を学び接待役となった。
二人は道中、朝鮮語で語り合い、次第に打ち解けるが京都で事件は起きた。
夜の接待会場に選ばれたのが方広寺。
日本側は近くにある耳塚には覆いをかぶせていたのだが、シンユハンら朝鮮側は方広寺が豊臣秀吉建立の寺であることを知って激怒、接待を受けないといい始めた。
苦慮した日本側は、いまある寺は秀吉が建立したものとはちがうとなだめて、事なきをえたが、この話し合いでも雨森芳洲は理と情をつくした。
雨森芳洲は別の場面で趙泰億に対して、朝鮮側が日本を「倭国」と呼ぶことの非を伝え「日本国」と呼ぶように求めた。
こうして二人は趙泰億の日本滞在中に、よく話し合いお互いを理解するようになった。
そして別れ。
シンユハンはそれまで日本に対して持っていたイメージを改め、雨森芳洲に対して別離の詩を送った。
こうしたエピソードは、その後も朝鮮通信使の滞在先でさまざまに生まれたという。
江戸時代。
司馬遼太郎氏は徳川政権下の日本をよく書いていない。
「城塞」のなかで大阪城が落城し、名実ともに徳川の天下になったとき「ちっぽけでつまらぬ日本になった」と書いた。
しかし、少なくとも隣国朝鮮とのあいだで友好関係を育んだことは高く評価されてもいいと思う。
それをぶち壊したのが、坂本龍馬らが活躍した幕末の「革命」をへて誕生した明治政府である。
もちろん朝鮮側にも非はなかったとは言わないが、主たる責任は豊臣政権のように侵略性を露にした日本側にあると思う。
ETV特集の次回「江華島条約 韓国併合への道」(仮)は、そうした時代に光が当てられる。
来年は朝鮮併合100年。
あらためて日本と朝鮮半島の関係を考えさせるいい番組だと思う。
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神道+朱子学で The end
上田秋成と本居宣長の論争なんて面白いです。
宣長は日本を皇国として世界の中心に置き、万邦無比の優秀さと卓越性を持つと強調するのに対し、秋成は日本を世界全体の中に位置付け、世界の諸国はそれぞれ独自性を持つとするんです。
構造主義のレビストロースも真っ青の先見性、アジアを遅れた地域としか見なかったマルクスよりも視野の広い人です。
ま、二人の論争の勝者は今では明白ですが。